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観光したい

ゆかりの人物

水原 親憲 すいばら ちかのり
天文15年(1546年) - 元和2年(1616年)5月13日

上杉氏の家臣。 大関盛憲の息子で、最初は大関姓を称していた。早くから上杉謙信に仕えて、1561年の川中島の戦いで武功を挙げたことを謙信より賞賛されている。また、新発田重家の乱における新発田軍との戦いで当主である水原満家が戦死して断絶していた越後国北蒲原郡水原を本拠とする名族・水原氏(平姓城氏一門大見氏庶流)の家系を継ぐことを許され、3414石の知行と145人の部下を与えられた。 常陸介を称す。 謙信の死後は上杉景勝に仕える。
1598年、景勝が会津に移ると、5500石の知行を与えられて猪苗代城城代に任じられた。
1600年の関ヶ原の役では、最上攻め(長谷堂城の戦い)に参陣した。
その撤退戦では追撃する最上勢に突撃する前田慶次らに呼応し、鉄砲200丁で支援射撃を行い、上杉軍の撤退を成功させた。
1614年の大坂冬の陣では徳川方として参戦し、豊臣軍を大いに打ち破るという武功を挙げた。そのため、将軍の徳川秀忠から感状を受けたが、「子供の石合戦ごときのような戦で、感状を賜ることになるとは」と、逆に悔しがったと言われている。

下條 忠親 げじょう ただちか
不明?−元和3年(1617年)9月25日

伊豆国(現在の静岡)から源頼朝の命により地頭として派遣された大見一族の大見家久が文永二年(1256)この下條に館を構え、下條氏と名乗ることににりました。織田氏と上杉氏の争いである、天正十年(1582)の新発田の乱では、上杉景勝方の前線拠点とした、新発田重家と度重なる攻防を繰り返し、笹岡氏、安田氏、水原氏の各館と共に揚北(阿賀野市)防衛の重要な役割を果たしました。
下條氏はその後代々「妥女」(官職名)を名乗り歴史上有名な川中島合戦にも参陣して武功を上げたと伝えられています。
上杉氏の会津国替えに従い、4700石で二本松城主、その後米沢移封により長井に移り鮎貝城の上代を勤め、以後、侍組・福島奉行など米沢藩の要職につきました。

千坂 景親 ちさか かげちか
天文5年(1536年) - 慶長11年(1606年)

戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初期の越後国の人物。千坂景長の子で、上杉氏の重臣。対馬守。子に千坂長朝、千坂高信らがいる。 千坂氏は、藤原氏北家の流れを汲む犬懸上杉氏の上杉朝宗の孫の上杉高春が越後国沼垂郡女堂村の豪族となり千坂を苗字としたことにはじまるという。代々、扇谷上杉氏の四家老の一つで、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時、千坂景親が上杉謙信の重臣となる。 景親は蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなく謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。
謙信の没後は、上杉景勝に仕える。
1598年に、会津大沼郡5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川家との折衝役を務める。
1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。
1606年、71歳で死去。
赤穂浪人の吉良上野介邸襲撃の少し前まで、上杉家の江戸家老を務めていた千坂高房(千坂兵部)は、景親の玄孫に当たる。

安田 長秀 やすだ ながひで
永正13年(1516年) − 天正10年4月16日(1582年5月8日)

戦国時代の上杉氏の家臣。治部少輔。揚北衆と言われる北越後の一族で、北蒲原郡白河庄の安田城主。安田家は長尾為景の時代から長尾家の臣下となっており、長秀自身は長尾晴景に対するクーデターに長尾景虎擁立派として参加するなど、早くから謙信の側近として仕え、武田信玄との川中島の戦い、織田信長との戦い、北条氏康との戦い等多くの関東・信州などへの出兵に参陣し活躍した。
第四次川中島の戦いに於いて、色部勝長・垂水源二郎・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬と共に血染めの感状を賜っている。 謙信の死後、御館の乱が起こったときには上杉景勝を支持している。
1582年、新発田重家討伐の最中に病没(1585年、または1592年に没したとの説もある)。 長秀の死後、安田堅親が領地を継承している。 なお、謙信の家臣に安田景元や安田顕元などの同姓の人物がいるが、長秀とは何の血縁関係もない別の一族である。(共に安田城主ではあるが、長秀は現在の阿賀野市、景元は現在の柏崎市の別の城である)

溝口 秀勝 みぞぐち ひでかつ
1548年(天文17年) − 1610年11月13日(慶長15年9月28日)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。越後国新発田藩の初代藩主。溝口氏(新発田藩)は甲斐源氏の逸見氏の庶流という。官位は従五位下伯耆守(ほうきのかみ)。 尾張国中島郡溝口の出身。幼名を竹千代という。のち金右衛門定勝と称す。溝口郷の領主・溝口彦右衛門勝政の長男。母は竹田氏。 幼少時から丹羽長秀の家臣として仕えていたが、1581年に織田信長からその才能を見出されて、織田氏の直臣として取り立てられ、5000石の所領を与えられて、若狭国高浜城主となった。1582年、本能寺の変で信長が横死したため、再び丹羽長秀の家臣となり、1583年の賤ヶ岳の戦い後、長秀から4万4000石の所領を与えられて、加賀国大聖寺城主となった。
1585年、長秀が没すると、その後を継いだ丹羽長重にしばらくは仕えていたが、間もなく長重のもとから去って豊臣秀吉の家臣となる。そして、秀吉の命により、堀秀政配下の与力大名として配属された。
1586年、秀吉から『秀』の一字を与えられ、秀勝と名乗る。
1598年、秀吉より越後国に6万石の所領を与えられ、新発田城を再興した。

佐久間象山 医師三浦家を訪問、吉田松陰、勝海舟の先生、京都で暗殺された。
亀田 鵬斎 中村家に滞在し儒学を広める江戸の儒学者2000人の門下生がいて良寛の友人
勝 海舟 水原代官所の代官に叔父が居て何度か来遊している12代男谷彦四郎 17代松坂三郎左衛門は父勝小吉の兄弟
山形 有朋 戊辰戦争で水原へ官軍の越後総督府参謀として進軍
頼 支峰 温故堂の先生として四年間水原に滞在、「温故堂」の名付け親 頼山陽の子
頼三樹三郎 頼支峰の弟、水原の文化や兄を尋ねて何度も来遊している安政の大獄で死刑
十返舎一九 市島角市を訪ね、下條の料亭亀屋に招かれる 1800年(越後道中膝栗毛)
高橋 克庵 三浦菜亭や水原の文化など友人が多い温故の先生 水戸の人
関 鉄之介 小田島家・三浦家・中村家・佐藤家と交流後の江戸桜田門外の変の一人である
壬生 基修 越後府知事その後東京市長 1869年2月8日
前原 一誠 判事として大河津分水工事や年貢半減令などで中央政府と対立し下野
八木 柳雪 越越後府の役人、後で第四銀行頭取や新潟市長県議を勤め万代橋を掛ける
河東碧悟桐 正岡子規の最後を看取る明治40年11月27日来遊
會津 八一 水原瓢会を指導する
相馬 御風 出湯温泉に滞在学校の校歌を多く残す、五頭山の烏帽子岩と出湯の入り口に石碑を残す。
大谷 句佛 明治36年5月6日無為信寺を来遊
西園寺公望 戊辰戦争では、北陸道鎮撫使、初代越後府知事となる18年後に総理大臣に幾回なる
巌谷 一六 明治三筆の一人
日下部鳴鶴 明治三筆の一人
巻 菱湖 新潟県巻の生まれ幕末三筆の一人
野口 雨情 童謡詩人、代表作は「七つの子」「赤い靴」「船頭小唄」等2000余編にのぼる詩を残した。
橋本 関雪 官展で連続入選を果たし、画家としての名声を得る。
近衛 文麿 昭和、戦前期の政治家。第34、38、39代内閣総理大臣で、貴族院議長も務めた。
竹久 夢二 明治末から昭和初期にかけて活躍、一世を風靡した詩画人。美人画など有名。
山口 坎山 旧水原町出身。江戸時代の関流和算家、道中日記を残す。
吉田 東伍 旧安田町出身。「大日本地名辞書」の著者。
明治 天皇 北越巡幸の際に新発田⇒笹神⇒水原間を巡幸。水原に巡幸碑有